芝居人形

雛人形と一緒に飾られた芝居の一場面を表した人形を田中本家では「芝居人形」と呼んでいました。

当時の大人たちは、芝居の内容をよく知っていたため、人形を見ながらその物語を子ども達に話したことでしょう。

雛祭りは、子ども達に日本の歴史や文化を背景にした物語を教える機会になったといいます。

江戸時代の雛まつり料理再現

このお料理は、江戸時代の接待帳『諸客賄方控帳』より「嘉永二年(1849)田中家五代新十郎主水の初孫 初節句の雛まつり料理」の記述をもとに再現したものです。
当館では、春(3・4月)と秋(10・11月)に「江戸時代料理再現食事会」を開催しています。江戸時代の接待帳をもとに再現した様々な料理を、本物の江戸時代の器に盛り付け、お食事を楽しんでいただく催しです。

豪商 田中本家の雛まつり 

大正時代(1912-1926)編 御殿雛と芝居人形

田中本家の大正時代の雛飾りを展示しています。

雛祭りは、3月3日に行われる日本で古くからおこなわれている行事です。
女の子の健やかな成長と幸せを願うお祭りで、家庭に女の子が生まれると祖父母や周辺の人が「雛人形」を贈ります。その雛人形を、3月3日の雛祭りに合わせて飾り、お祝いをする風習があります。

内裏雛、三人官女、五人囃子など、現代でも馴染みある雛壇飾りとともに、今ではほとんど見られない雛飾りもあります。「芝居人形」と呼ばれた芝居の一場面を表した人形、歴史的な人物の人形も雛壇に一緒に飾られました。
女の子の健やかな成長と幸せを願う行事である雛祭り。雛飾りには先人たちが子ども達に伝えてきたメッセージが込められています。
時代は変わっても変らない、想いや願いを感じて頂けると幸いです。

約100年前の子どもたちの着物

こちらでは、田中本家に残された約100年前(大正~昭和時代)の男の子と女の子の着物を展示しています。

よそゆき着、おしゃれ着、普段着などとして着用されたものですが、大変良い状態で保存されてきました。

着物に表現された季節感や、可愛らしい色や模様の多彩さをご覧ください。

浮世絵の制作工程

浮世絵の制作工程について、喜多川歌麿「江戸名物錦画耕作」をもとに紹介します。この作品は、浮世絵の制作風景を女性に置きかえた浮世絵です。

1.デザイン・内容を決める(版元・絵師)

版と絵師が絵を見ながら相談しています。

版元は出版プロデューサーにあたり、浮世絵の企画内容、各工程のチェック、職人たちの手配など、浮世絵の全て取り仕切る責任者です。絵師はデザイナーです。版元と相談し、浮世絵の下絵を描きます。

2.版木を彫る(彫師)

絵が決まると次は版木を彫ります。

下絵をもとに小刀で絵柄を彫り、絵柄以外の部分をノミで削り取ります。浮世絵では、1色につき1版、版木を作ります。

3.礬水引き(どうさびき)

浮世絵を刷る紙に刷毛で礬水(どうさ)を塗り、乾かしています。水とは、ニカワとミョウバンを混ぜた水溶液です。紙の耐水性を高め、絵具がにじむのを防ぐための作業です。

4.浮世絵を刷る(摺師)

墨や絵具を刷毛で版木に広げ、摺師が馬連(ばれん)で紙に摺り

上げます。多色刷りの場合は、何色もの版木を色がずれることなく摺り上げていきます。

色鮮やかな浮世絵の完成です。

錦絵三枚続き

錦絵三枚続きとは、浮世絵を3枚組み合わせ、ひとつの作品にしたものです。
浮世絵は、1枚にひとつの画題を描くのが普通で前後国芳以前にも三枚続きの浮世絵はありましたが、1枚だけ抜きだしても作品として鑑賞できるように描かれていました。これに対して国芳は、3枚揃えないと絵が完成しない作品を作ります。
その迫力。インパクトは人々を驚かせたことでしょう。
錦絵三枚続きの制作時期は、1850年前後の一時期に集中しており、円熟期に入った国芳が、それまでの常識にとらわれない新しい様式を打ち出そうとしていたことがうかがえます。

浮世絵とは

私たちが一般に浮世絵と呼んでいるものは、多色刷りの木版画(にしきえ)のことです。
ほかにも、墨一色の墨摺絵(すみずりえ)などもあります。
また、版画のため大量生産が可能でした。
それに対して、絵師が直接筆で描いたものを肉筆画(にくひつが)といいます。

国芳 略伝

歌川国芳は、1797年に日本橋の染め物屋の息子として生まれました。
12歳のときに描いた「鍾馗」の絵が認められ、歌川豊匡に入門し浮世絵師を目指します。
長い下積み時代が続いたのち、30歳の頃「水滸伝」を題材にした武者絵が大ヒットし、一躍人気絵師の仲間入りを果たします。
人気絵師としての地位を確立したあとも、風景画、役者絵、美人画、戯画などあらゆるジャンルの作品を手掛け、西洋画の技法を学ぶなど常に新しいアイディア、革新的な作品を作り続けました。
河鍋暁斎や月岡芳年など、そのあとに続く多くの日本画家を育て、1861年、65歳でその生涯を終えました。

ある女性の一生

明治27年(1894)2月、田中家七代  力之助の長女として生まれた田鶴は、九代新十郎 (三次)を婿養子に迎え、86年の生涯を田中家で過ごしました。

その幼少期から晩年までの間に着用した衣裳と、その時々に使用した玩具、学用品、日用品、調度品などから、明治・大正・昭和を生きた女性の生涯がうかがえます。

Wedding  Kimono

大正4年(1915)、田中本家七代目当主の長女、田鶴の婚礼が行われました。

盃事を中心とした婚礼儀式をはじめ、毎回違う客を招いて何度も開かれた宴会、挨拶回りなど、婚礼に関わる行事は約1カ月間に及んだといわれています。

田鶴の花嫁衣裳は婚礼儀式で着用する白無垢のほかに、地色が白・赤・黒・青の4枚の打掛、黒留袖、三枚重ねの留袖などが用意され、その場面に応じて着替えられたといわれています。
いずれも、母の佐賀が東京の三越呉服店に注文したものです。
ここでは、その花嫁衣裳の一部を展示しています。